思考と感情は別の存在

人生を歩んでいると、たまに重いイベントが発生します。

突然、仕事が無くなったり、財産を失ったり、借金が出来たり、重い病気にかかったり、大切な人が去って行ったり。

先が見えなくてどうすればいいのか分からない時は感情的に圧倒されたりします。
我々は重いイベントに対して免疫がありません。
自分の身に災難は降りかかるとは思っていないからです。
辛い事、苦しい事、不運な事は他人事と感じる傾向があるようです。
心理的な備えがないので、いざその時になると大変な思いをします。

私たちは日々の暮らしの中で、自分を殺しながら生きています。思ったことを飲み込みながら生きています。
出来るだけ周りに合わせようと自分を型にはめこみます。そうしないとトラブルが起こったり、イジメの対象にされるからです。

しかし、重いイベントが発生した時、私達は「日常」という束縛から自由になります。
ルールや習慣から解放されて、素の自分と向き合うことが出来るようになります。
重いイベントが発生した時は見栄もヘッタクレも無くなり、素の自分が出てきます。

今まで我慢してきたものが表面に出てきて、全身の血が煮えるような怒りに包まれたり。
漠然と見えていた未来が突然消えて、どうすればいいか分からなくなって途方と絶望に暮れたり。

怒りに全身が包まれると、善し悪しの判断が出来なくなります。通常の思考ができなくなり、感情体が肉体を支配して動かすようになります。怒りに身を任せ、普通は出来ないことでも行えます。
その後、感情体の支配が弱くなり思考が肉体を再度支配する時「われに返った」といいます。

文字で表現すると難しく感じるかもしれませんが、私達は日常的にこの感覚を味わっています。
当たり前の出来事を文字で理論的に説明しようした時に、常識の範囲では説明ができない出来事が身近にあったりするものです。

不安と恐怖に全身が包まれると、思考が働かなくなります。不安や恐怖は肉体も思考も停止させます。心の片隅で「何とかしなきゃ」思っていても、不安や恐怖が肉体を支配している間は叶いません。不安や恐怖が小さくなり、再び意識が肉体のコントロールを取り戻すまで待つしかありません。

このような時、我々は思考と感情は別々に機能していると知ります。

日頃は連動し、重なり合い、お互いリンクしているので同じものと認識していますが、強い感情を感じた時には、思考と感情は独立して機能していることが分かります。
感情が強くなると私達は感情の支配下で活動します。この時、思考は感情に支配され活動を止めます。

ヨガでは、私たち人間は目に見える体の他に目に見えない体も持っていると教えます。

目に見える体はわかりやすいです。
物質として存在しているので写真やカメラに写ります。自分の目にも映れば他人の目にも映ります。

目に見えない体は厄介です。目に見えないので確認できません。
例えば、電波や磁場などは目に移りませんが、実験機器を使うことでその存在が確認できます。しかしながら、現代の科学技術では見えない肉体を測定する事ができません。

目に見えない体には、思考を司る体、感情を司る体、それ以外にもありますが、大きさは肉体より少し大きい程度で、肉体と重なり合って存在します。また、見えない体はオーラとも呼ばれています。

次回の記事では、感情体のコントロールにフォーカスしたいと思います。人生を生き抜くうえで感情のコントロールは大切な要素だからです。そして具体的には、多くの人を悩ませる怒りのコントロールに絞っていきたいと思います。怒りはエネルギッシュで何でも壊してしまうからです。

最新記事を見逃さないためにも、 ツイッターでフォローをお願いいたします。

また、シェアも歓迎です。「ツイッター」「Face Book」「Line」のシェアボタンは記事の最初と最後にあります。
「Pocket 」ボタンは後で読むための「しおり」的存在です。

長文を読んで頂きありがとうございました。
たつろう

下のシェアボタンで他の人にも教えてあげよう

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)